受け継がれる伝統の心「高岡銅器」

CULTURE

受け継がれる伝統の心「高岡銅器」

APR. 4.2016

17世紀初頭から400年におよぶ歴史を持ち、富山県第二の都市への発展を支えた高岡銅器の職人技。熱く溶かした金属を鋳型に流し込み、さまざまな形を生み出すその技は、技術を発展させながら多くの職人たちへと受け継がれてきました。
鋳型の砂にまみれ、灼熱の炉に汗を流す鋳物の現場は男の世界。そんな世界に身を投じ、鋳物師の道を歩む杉原優子さんは、持ち前の忍耐強さと憧れを胸に、錫(すず)の鋳物制作に取り組んでいます。

鋳物づくりができるなら、 過酷な作業も苦にならない

高岡銅器の始まりは、1609年に加賀藩主の前田利長が高岡城へ入城し、町の繁栄を図るために鋳造を奨励したことがきっかけ。1611年には現在の富山県高岡市金屋町へ7人の優れた鋳物師が招聘され、工場を開設。鍋、釜などの生活用品や、鍬や鋤といった農機具など鉄の鋳物だけでなく、江戸時代中期には花器や仏具など銅の鋳物づくりも盛んに。19世紀後半にはパリ万国博覧会にも出品され、高岡銅器の高度で繊細な金属加工技術は世界にその名を馳せました。

なかでも、1916年に創業した株式会社能作は、高い鋳物技術で錫(すず)100%の食器を開発しました。 錫は酸化しにくく、抗菌作用が強いという特性があり、金属アレルギーにもなりにくい素材。水を浄化し、お酒の味をまろやかにするといわれ、食器や酒器の素材に適していると言われています。その半面、純度100%の錫は軟らかすぎるために鋳造には高度な職人技を要すると言われています。その錫の加工技術を身につけた杉原優子さんは、同社で唯一の女性の鋳物師として活躍しています。

「鋳造と出会ったのは大学時代のとき。当初は美術教師を目指していたのですが、たまたま授業の一環で鋳造に触れてからその魅力に惹かれていきました」と杉原さん。「大学にあった工芸研究室との関わりを深めていくうちに、将来はこの分野に進みたいと考えるようになった」と言います。大学卒業後は迷うことなく鋳物師の道を目指し、鋳造の仕事に携わるために就職活動を行ったのだとか。

鋳物の町・高岡には、家内制手工業のような小さな工房から大工場をもつメーカーまで、就職先の選択肢として数多くの企業が存在。ところが女性を鋳物職人の見習いとして雇う企業はなかなか見つからなかったそう。そういった状況で出会ったのが株式会社能作でした。

杉原さんは電話で「働きたい」という気持ちを一生懸命にアピール。しかし、会社としても前例がなく、女性は長続きするわけないからと、最初は杉原さんの希望を断ったのだそう。それでもあきらめずに交渉したところ、アルバイトとしてとりあえず1週間働けることに。鋳物づくりは力仕事が多く、過酷な現場を体験すればその間に音を上げると思われたのかもしれません。しかし、杉原さんはどんな仕事もいとわず、粘り強く作業を覚えていきました。そして1週間後、再び社長の能作克治さんに入社したいという強い意思を伝えた杉原さん。ようやくその願いは受け入れられ、鋳物師としての道を歩み始めたのです。

砂で作った空間が金属へ変わる瞬間が鋳物の魅力

コスト競争になる大量生産に早い時点で見切りをつけ、多品種少量の生産体制を選び、あえて昔ながらの職人の手による鋳物づくりを続けてきた同社。その結果、職人の技術レベルの高さは、同業者がひしめく高岡でも屈指の存在となりました。伝統ある技術の継承にも功を奏し、熟練の職人から若手へとその技を伝える土壌が備わっています。見習いの杉原さんに鋳物づくりの技を一から教えたのは、たたき上げの鋳物師で30年の職歴を持つ志浦健治さんでした。

「志浦さんは昔ながらの職人気質で、とても厳しく仕込まれました。『理屈をこねる前に、とにかくやってみろ』という感じですね。そして、見様見真似で覚えるのではなく、なぜこうするのかを考えながら作業することを教わりました。初めはいろいろ戸惑いましたが、厳しくも辛抱強く教えてくれた志浦さんのおかげで技術が身についたので、今はとても感謝しています」 と杉原さん。

それでも入社したばかりの頃は、毎日を辛く感じたこともあったそう。火を扱う仕事だけに、軽いやけども日常茶飯事。しかし、それ以上に鋳物の造形は面白く、杉原さんにとっては「ずっとやっていても飽きない仕事だった」と言います。「鋳物の魅力は、形づくった空間が金属に変わる瞬間ですね。この感覚は作り手でなければ、感じることはできないかもしれません」

“10年で一人前”というこの世界で8年の経験を積み重ねた杉原さん。本人は「まだまだ」と控え目ですが、高岡銅器を代表する鋳物師になる日もそう遠くないでしょう。

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